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高千穂あまてらす鉄道総合研究所
連載

〝旅学〟のすすめ

第1回 「旅」と「観光」って違うんですか?

「旅学」という聞き慣れないテーマを掲げてフィールドワークを続ける著者が、旅人のまなざしで〝世の中の歩き方〟を考える。旅とは、人生そのものだった――。

観光とは何か

「観光」といえば、多くの人が経験しているでしょう。名所や絶景を訪ね、美味しいものを食べたり、素敵なホテルに泊まったり、気晴らしにちょっと贅沢な休暇を満喫するものですね。観光学の文献では「楽しみを目的とする旅行」(注1)、「余暇社会における自由時間を利用して、一時的に日常生活圏を離れ、各地を周遊して、ふたたび出発地へ戻ってくる旅行行為」(注2)等と説明されてきました。
(注1)『観光学大辞典』香川眞編、日本国際観光学会監修、木楽舎 2007年
(注2)『現代観光用語事典』日本交通公社編、日本交通公社出版事業局 1984年

 
ここでは特徴を四つ挙げてみます。
 
一つ、名物を「見る」行為に重点があること。観光の語源は、国家の威光を観る(あるいは示す)、王様の偉業を仰ぐ、という意味の「観国之光」(注3)です。人々はピラミッドやエッフェル塔など、目立つもの、偉大なもの、立派なものを目当てに出かけ、いわば非日常の舞台を鑑賞します。古くは「物見遊山」といいました。英語では「サイトシーイング(sightseeing)」です。観光とはよく知っているものを見ること、メディアでおなじみのスポットを再認しに行くことだ、といわれたりもします。
(注3)『易経』中国古代の経典

パリの観光客が必ず訪れるエッフェル塔=2010年、フランス(筆者写す)

二つ、「消費」行動であること。移動や宿泊や食事や入場料も、せっかくのハレの日ですからお金を使おう、という動機が強くなります。観光学では経営や顧客満足が重要な研究対象です。地域活性化で注目されるのも、主に経済貢献の面からでしょう。
 
三つ、「幻想」であること。高千穂あまてらす鉄道総合研究所理事長の髙山文彦の言葉を引用すると、「観光業というのは、あけすけに言えば、幻想をふりまいていかに人に消費させるかをたくらむ業態」(注4) となります。人工的に楽園のイメージをつくり、感動が演出される。お客さんはそれを踏まえつつ、ひとときの夢を味わいます。
(注4)『記憶と知の資産化 第3回』高千穂あまてらす総合研究所 2026年
 
四つ、「余暇」であること。観光は余った時間の消化方法であり、娯楽、遊び、レジャー。「仕事」や「勉強」の対義語ともみなされます。生活に不要不急なため、観光業は景気に左右される水商売でもあります。

旅とは何か

それでは、「旅」はどうでしょうか。同じく特徴を並べてみましょう。
 
一つ、訪問先の「日常を感じる」方向に力点があること。立派なものも見物するかもしれませんが、それ以上に、地元民の「普通の暮らし」に触れます。名所のお土産屋さんより、生活者の市場やスーパー。庶民の日々の営み。その中にある平凡な、あるいは意外な「あたりまえ」を知る体験。たとえば食事なら、高級レストランよりも家庭の手料理を喜んだりします。獨協大学教授の山口誠の分析でいう「旅先の街に自らを溶け込ませ、その街に住む人々の日常生活に触れ、現地の人々と交流することを楽しむ旅行」(注5)にあたるでしょう。ソローの表現を借りれば「ピラミッドなど、何も驚くに値しない」「多くの人々は西洋や東洋の記念碑に関心があって、誰が建てたのかを知りたがる。私としては、当時、誰がそんなものを建てなかったか……を知りたいと思う」(注6)といった傾向です。
(注5)A.フロンマーが著したガイドブックの分析。『ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史』山口誠、筑摩書房 2010年
(注6)『森の生活 ウォールデン』ヘンリー・D・ソロー、佐渡谷重信訳、講談社 1991年

町角の八百屋さんで生活を感じる旅=2018年、インド(同)

二つ、「身体性」が強いこと。観光が「視覚」中心である一方、旅は「五感」から情報を吸収し、ときには体を酷使します。歴史的に「旅をする」ことは「歩く」ことでした。したがって歩くほど旅の原形らしくなります(注7)。歩きながら大気を浴び、全身から土地の気配を感じ取る。疲れたり道に迷ったりもしますが、だからこそ体の奥から力が目覚め、「生きている実感」がわく、と旅人たちはいいます。
(注7)ここでの「歩く」は自力を駆使することの大意であり、車椅子等も含む。
 
三つ、「苦難」があること。歩くことも然り、旅は試練となります。観光なら快適に過ごしたいところですが、不便を含むのが旅。慣れ親しんだ安全圏を出る、未知への冒険という面を持ちます。そのため旅は人生に例えられ、さまざまな文化で学びと成長に必須の通過儀礼と位置づけられてきました。英語の「トラベル(travel)」の語源は「三本の杭による拷問」です。けれども苦労の旅ほど、山登りのように、のりこえた先の喜びがひときわ輝きます。
 
四つ、「出会い」があること。「旅は道連れ、世は情け」というように、現代の旅人たちも「旅は出会い」と口をそろえます。地元の人や行きあった旅人と、ささやかでも新しい交流があったとき、それは忘れがたい「旅」となります。どのような旅でも最も思い出に残るのは、人との会話。サービス業の提供者と消費者という枠を超えた出会いです。
 
こうした旅を学び、旅に学ぶことを、私は「旅学」と呼んでいます。

旅と観光のはざまで

さて、「高千穂あまてらす鉄道」のある宮崎県高千穂町を訪れる人々は観光客でしょうか、旅人でしょうか。実際のところ、概念として旅と観光の分類はできても、現実の行動は割り切れないもの。たいていどちらの要素もあります。迎える側としては、なるべくパーッとお金を使ってくれる観光客的な人に来てもらったほうがいいかもしれませんね。
 
しかし、派手な散財をしないタイプの旅人でも、目先の経済効果では計れない、精神的・文化的な刺激をもたらす可能性があります。
 
たとえば、私が高千穂の町を歩いていたときのこと。高校生らしき制服の少年たちが通りすがりに「こんにちは」と挨拶してくれたのです。生徒が見ず知らずの他人に声をかけるなど、都心では通常あり得ません。高千穂ではこれが日常なのか、と新鮮でした。大切な人間性に気づかされた思いでした。ガイドブックには載らない、こうした地域の魅力を発見するのも旅人の役割ではないでしょうか。
 
観光と旅は、対立概念ではありません。「余暇」を意味するギリシャ語の「スコレー(skhole)」は、「学校」や「学者」の語源でもあります。遊びと学びが根は同じであるように、観光と旅は地続きといえるでしょう。近年は「旅は古臭い過去のもの」「今は観光産業の時代だ」といわれて観光学が盛況ですが、旅も終わってはいません。むしろ「旅学」を追ってきた立場から見れば、拡大する観光市場の片隅で、昔ながらの旅に回帰する兆しも感じられます。これからは、観光に傾きすぎた重心を少し旅に戻した「旅寄りの観光」あたりが注目点かもしれません。

道端の草花、庭先の果樹、山との暮らし……。なにげない風景を歩く旅=2024年、宮崎県高千穂町(同)

すでに廃線になった高千穂鉄道では、乗客同士の温かいコミュニケーションが日常風景だったといいます。それはまさに、日常と非日常、地元住民と外部の人たちが交差する、旅と観光のハイブリッドだったのではないでしょうか。現在は観光施設として賑わう高千穂あまてらす鉄道は、かつての高千穂鉄道が走った「なつかしい未来」へと向かっています。それはまさに「旅寄りの観光」路線なのではないでしょうか。
 
高千穂はまた、荘厳な山々の息吹に囲まれています。山は古代から未知なる異界とみなされてきました。鉄道を降りてしばし佇んでみれば、観光と旅の接点、不思議な冒険への入口は、実はすぐそこに開いているのかもしれません。
(敬称略)

一般社団法人 高千穂あまてらす鉄道総合研究所研究員/「旅学」という新しいジャンルを切りひらく在野の研究者/取材ライター&編集

福田 晴子

Haruko Fukuda

一般社団法人 高千穂あまてらす鉄道総合研究所研究員/「旅学」という新しいジャンルを切りひらく在野の研究者/取材ライター&編集

旅の社会的効果、文化人類学、開発人類学をもとに、風土と人の記録や多面的な調査・発表をおこなう。