地方の歩みと大いなる可能性(前編)
過疎はどのように生じ、社会はどう対応してきたのか。人と自然が隣接するフィールドに通い続け、農山漁村の生活文化、狩猟、手仕事、道具、野遊び、環境問題などを取材し続けるネイチャー・ジャーナリストが、その歴史を解き明かす。
私がはじめて廃村(=挙家離村)という社会現象に出会ったのは1980(昭和55)年だ。当時、大阪で暮らしていた私は職場の先輩に誘われ、滋賀県北部の川へイワナ釣りに出かけた。記憶が確かなら高時川だったと思う。先輩が「ここから上下に分かれて釣ろう」と車を停めた場所は、茅葺きの小さな廃屋が並ぶ谷あいの平場だった。庭や道や畑だったあたりはすっかり草茫々だ。当時、田舎の集落では我々のような闖入者が近づくと犬が吠え立てたものだが、あたりはしんと静まり返っている。雪の重みだろう、潰れてはいないが軒の落ちた家が多い。無住になって10年内外といったところか。男二人連れとはいえ、背筋がぞわぞわする光景だった。
「こういう山奥の生活は大変なんや。だから道路がようなったら出て行ってしまう。イワナのいるような村はどこもそんな感じやで」。先輩は訳知り顔でいう。それにしても何があったのか。あの日の景色はしばらく私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「過疎」から「限界集落」「消滅可能性」へ
過疎という言葉が初めて公式に登場したのは1966(昭和41)年である。内閣総理大臣の諮問機関である経済審議会が、中間報告で「当時世界でも希な経済成長を遂げた日本社会に起きつつある兆候」として、①巨視的視点での地域格差問題②人口急増地域における過密問題③人口の急減する地域における過疎問題――の三つを挙げたのだ。
このような問題意識が持たれるきっかけは1960(昭和35)年の第9回国勢調査の結果である。農山村から都市部への特異な人口移動が確認された。その時点では、この現象が意味することはまだ重く見られていなかった。ところが、65年の第10回国勢調査で、その動きが地滑りのように進んでいることが明らかになった。ここに至り、人口問題は長期間止まることのない重大な社会現象であるという認識が広く持たれた。
過疎という言葉は当時まだ辞書には載っていなかったが、「密」の対比語として「疎」が充てられ、以後の社会で「過疎」という言葉に熟していくのである(注1)。過疎の問題点は、人口密度が下がった結果として高齢化が進み、冠婚葬祭、道普請、溝浚い、草刈り、消防団活動などの共同作業の運営が困難になることだ。通学など教育にも支障が出る。
(注1)『日本の過疎地帯』今井幸彦編著(岩波書店、1968)
高齢化社会では、集落機能の低下と住民の気力体力の衰えが同時に進む。祭りを考えるとわかりやすい。神輿の重さは変わらないが、氏子が減り数少ない担ぎ手の足腰が弱れば、祭りは維持できなくなる。そうした衰えが暮らしのさまざまな局面で閾値に達すると、集落はいよいよ看取りの段階である。
この進行度にショッキングな呼称を用いたのが高知大学の大野晃(注2)だ。1980年代、大野は生産年齢人口を超えた65歳以上の人々(高齢者)の比率が50%を超える共同体を「限界集落」と名付けた。さらに比率40~50%未満の場合を「準限界集落」と定義している。集落の寿命が末期を迎えるとどうなるのか。行政や研究者は「消滅集落」という表現も用いる。2014(平成26)年に元総務相の増田寛也を座長とする日本創成会議・人口減少問題検討分科会が発表し、物議をかもしながらも全国の地方行政関係者に緊張を走らせたレポートの名もまた『消滅可能性自治体』(注3)であった。
(注2)社会学者。高知大学教授時代の1988年頃に限界集落の概念を提示。主な著書に『限界集落と地域再生』(農山漁村文化協会、2005)
(注3)『地方消滅』(1、2)として新書で刊行(中央公論新社、2014、2024)
ここで認識を共有しておきたいのは、集落消滅(廃村・挙家離村)に至るまでの背景だ。過疎とは高齢化が極限になることであり、高齢化とは若年人口の流出を意味するが、事情はそれだけではない。戦前・戦後に各地の渓流を釣り歩いた山本素石(注4)は、富山と県境を接する岐阜県の万波(注5)という集落が消えた理由に触れている。
(注4)滋賀県生まれの随筆家。元天理教滋京分協会長。釣りを通じ生態学者の今西錦司らと交遊。著書に『逃げろツチノコ』『渓流物語』など
(注5)山本素石は集落としての万波の読みを「まんば」としているが、地誌やエリア名の表記では「まんなみ」と記される
1934(昭和9)年のある出来事を境に消滅した万波集落は、明治中期頃に誕生した開拓村だった。このあたりは標高1千㍍を超える高原地帯で、夏は冷害の不安にさらされ冬は日本海からもたらされた雪の吹き溜まりになる。もはや山村とは言い難い荒蕪地だが、人々は覚悟のうえで移り住み、ツルハシや鍬を入れた人々がいた。
昭和9年といえば、世界経済を大混乱に陥れた暗黒の木曜日からまだ5年。日本は蔵相高橋是清の積極財政策によって最悪の局面を脱し、都市部の商工業が持ち直した時期だ。しかし、恩恵は農山村まで届かなかった。3年前には東北・北海道を大冷害が襲い、農民は売る作物どころか自分たちが食べるものにも事欠いた。昭和農村恐慌と呼ばれたこの時代、凶作に見舞われた農民は天保・天明の飢饉の際がそうだったように、借金返済のために娘を売るしか手立てがなくなった。昭和農村恐慌の場合は、その斡旋窓口を役場内に設けた村もあったという異常ぶりだった(注6)。この頃、東北・北海道では数波にわたり冷害が起きている。現在の日本では飢饉という言葉がリアルタイムで使われることはないが、少なくとも昭和の前期まで、冷害と飢饉とは同義語だった。1936(昭和11)年の2・26事件で決起した青年将校や下士官、兵の中には、地元の窮乏に憤る東北の農家の出身者が少なくなかった。
(注6)『一億人の昭和史第3巻』(毎日新聞社、1975)
次男三男、開拓の悲哀
そもそも当時の農業は人力とわずかな畜力が頼りの家族労働型産業である。日本の人口は明治から昭和にかけて急増するが、耕地面積までが大きく増えたわけではない。次男三男は若いうちは家の労働力として重宝される。だが家督を継げるのは長男だけだ。かつて富農と呼ばれた家でも、数代にわたる間に分家(新宅)、また分家という形で財産が分割され、暗黒不況が襲った時代には次男三男を農家として独立させる余裕のある家はもうなかった。
惣領息子とて暮らしが楽だったわけではない。冬の農閑期には現金を得るため出稼ぎに行くことも農山村ではシノギの立て方のひとつだ。たとえば酒造りの杜氏集団がそうである。収穫が終わった秋から次の春までは造り酒屋に泊まり込んで働く。こうした暮らしは江戸時代からの伝統であった(注7)。行商人や大工として町へ出る人たちもいた。
(注7)『ベテラン杜氏への聞き書き調査結果』(日本の伝統的なこうじ菌を使った酒造り技術の保存会)2025
それがそもそもの農山村の生活である。次男三男は養子に行くか、早くから町場の商家へ丁稚として出るか、人足や職人の弟子になるしかない。娘たちも貴重な戦力だ。『おしん』のようにまだ幼いうちから子守りのような下働きに出された子もいるし、尋常小学校を終えると女工哀史に象徴される紡績工場へ働きに出て家計を助けた娘も多い。
そして最後の選択が開拓地への入植である。雪深い岐阜の万波は、覚悟を持って鍬を入れた人たちさえ驚いたほど絶望的な土地だった。当初80ほどあった戸数は減り続け、昭和初期には30戸になった。山本は〈五月の中旬になってから軒を埋める積雪に見舞われたり、六月の声を聞いてから霜が降ったりして、畑作物が全滅することもあった〉〈予想を上回る年ごとの大雪と、寝息も凍る寒気のきびしさに耐えかねて、次つぎと山をくだった〉と記している。
万波に最後まで残った人たちにとどめを刺したのが、昭和9年に地域を襲った猛吹雪だ。隣家との往来も絶たれ、集落はしばらく常世の闇となった。
明治以来この地に根を張って来た万波開拓集落の人たちは、この豪雪に生きる希望を断たれたのである。万波では、冷涼な気候を生かしイチゴの生産が試みられたこともあるという。イチゴは今でも高級果物だが、戦前はとびきりの贅沢品で、農民からすれば付加価値の高い作物だった。入植者たちは、この地で生き残る術をさまざまに模索していたことが垣間見える。人家が消えすっかり原野に還った万波を釣り竿片手に訪ねてみた山本は、そこで野生化した赤いイチゴと出会うのである。彼は、人無き里で何十年も生き延びた希望の実を口に含んだとき〈咽の奥から鼻をつき抜けるようにわけのわからぬ涙がこみあげた〉と記す。
開拓は、終戦で外地からの引揚者や復員者が激増したときも国策として進められた。とはいえ、余地があるのは、万波のような冷害に弱い高地や、土が痩せ水の乏しい火山灰地、低湿地などの条件不利地域である点は戦前と変わらない。満州まで開拓に出たものの夢破れて帰国。暮らしを立てるすべはなく、再び開拓に賭けるしかない人たちも多かった。
経済成長が人口流動を加速
高度経済成長期を迎えると、それまで自給自足や贈与型の経済を軸足にしていた農山漁村にも、貨幣経済の波が押し寄せた。大量生産大量消費という生活様式が、それまで緩やかで目立たなかった人口流動現象を加速させた。先の見えない場所でもがき続ける開拓民が真っ先にその流れに乗り、都市や工業地帯での賃金労働を選んで村を出た。
ちなみに私が初めて廃村に出会った滋賀県の場合、移転の引き金はエネルギー革命だった。本稿を書くにあたり調べてみたところ、1960年代から70年代にかけ、高時川流域四つの集落が集団離村している(注8)。主要な現金収入であった薪炭の価値が急落したことが直接の要因だったという。
(注8)ウェブサイト『しがコト』。50年間で30万枚!「離村集落」を撮り続けた膨大な記録写真の展示「湖北アーカイブ研究所」2026年2月25日閲覧



前述のように、かつての農家経営は合わせ技だった。野菜専業農家、畜産専業農家のような形で生計が立つようになったのは高度経済成長期以降で、中山間地本来の農業は複合経営である。いや、そういうと恰好が良すぎるかもしれない。いくつもの小さな稼ぎを合わせることで、農山村のシノギはなんとか立っていたという表現が正しいだろう。
そんな暮らしの中で、豊富な森林資源を生かした炭づくりは重要な収入源だった。炭焼きはかつて全国どこの農山村でも行われていたが、その木炭の生産量が最初に大急落したエリアが中国山地だ。統計によると、1957(昭和32)年から65(昭和40)年の8年間で、80%もダウンしている。中国山地は瀬戸内海コンビナートに比較的距離が近い。臨海工業地域の労働力の引き合いがきわめて強い時期であったことも離村を加速させた(注9)。中国山地における木炭生産量の激減は、プロパンガスや石油が暮らしの熱源に置き換わったエネルギー革命が主因だが、将来を見据え今の暮らしに見切りをつけた人たちが多かったことも理由と考えられている。いずれにせよ、山村の稼ぎ頭だった木炭が価値を失ってしまったことの意味は大きかった。
(注9)『日本の過疎地帯』今井幸彦編著(岩波書店)1968
山村から人がいなくなる理由は1次産業の衰退だけではない。50~60年代は、炭鉱やダム工事の従事者とその家族によって街区が形成されていた地域もある。炭鉱のあった福岡県庄内町、長崎県崎戸町では、閉山決定からわずか5年のうちに人口が半減した。岐阜県白川村の場合は、ダムの完成とともに人口の6割以上が流出した(注10)。私が廃村を見た滋賀県高時川流域では、90年代にダム建設計画が持ち上がったときにも立ち退きを受け入れる形の離村があったという。
(注10)『日本の過疎地帯』同上
岐阜県万波開拓のように、自然災害が廃村や過疎化の原因になった地域も多い。たとえば中国山地の山あいにある島根県匹見町(現益田市)。ここは1963(昭和38)年の三八豪雪の時、町全体がおよそ1カ月孤立した。積雪は4㍍にものぼり、食糧が底を尽いて栄養失調が発生したという。その影響が癒える間もなく翌年には集中豪雨が襲った。こうした自然災害が重なってそれまで7千人ほどあった住民の数は5千人に減った。危機感を覚えた当時の町長大谷武嘉は国会へ出向き、過疎地の置かれた現状を強く訴えた。この大谷の陳情によって過疎という言葉が広く世に知られ、過疎対策法が成立するきっかけになるのである。
林業政策の迷走
現在、農山村の仕事として真っ先にイメージされるのは杉や檜などの建築木材を生産する林業だろう。だが、杉・檜の針葉樹林(人工林)が山林面積の中でこれほど増えたのは60年ほど前からだ。秋田や木曽(長野)、北山(京都)、吉野(奈良)、飫肥(宮崎)などは江戸時代から銘木産地として知られてきたが、全国どこにでも杉・檜が植えられるようになったのは1950年代から60年代にかけて推進された拡大造林政策がきっかけだ。この時代までは戦後復興の流れで建築材の引き合いが強かった。一方の山村は木炭需要の激減で広葉樹の薪炭林を持て余していた時期だ。国は不良債権化した薪炭林を皆伐し、投資価値の高い杉・檜に植え替える一斉施策に舵を切ったのである。

江戸時代から優良な建築材を代々育ててきた銘木産地には、木材景気の恩恵に沸いた時代の記憶がある。そんなモデル産地の印象が増幅され〈いま杉の苗を植えておけば子や孫の代には左うちわで暮らせる〉といった言説が全国に広まった(注11)。森林所有者と契約し、その土地で行政の外郭団体が人工林の育成を行ない、数十年後に木材の収益を分け合う分収造林事業制度も鳴り物入りで始まった。
(注11)『平成23年 第4回(定例)由 布 市 議 会 会 議 録(第3日)』(由布市)2011
ところが、拡大造林政策は迷走する。東京五輪のあった1964(昭和39)年、国は木材の輸入を完全自由化。外貨獲得の伸び代が大きな自動車や家電品と引き換えに、1次産品の輸入を認めたのだ。暑いさなかの草刈りに汗をかいて守り通した苗が伸び、良材に仕立てるために欠かせない枝打ちの時期に差しかかった頃だ。こうした手のひら返しは山村に踏みとどまった人たちを失望の底に突き落とし、過疎問題に拍車をかけることになったのである。
都会をめざす「金の卵」
過疎の歴史を考えるうえでもうひとつ忘れてはならない現象が若者の都会願望だろう。高度経済成長期はもう開拓の時代ではないが、農家の次男三男、そして跡取り娘以外の女子が働ける場は地元には依然として少なかった。そこへ登場した制度が集団就職だ。炭焼きの消失でもふれたように、急成長する経済のあおりで都市の商工業地域では極端な労働力不足が起きた。注目されたのが農村の余剰人口、つまり農家の次男三男、娘たちだ。1954(昭和29)年、国鉄が初めて集団就職列車を運行した。映画『三丁目の夕日』のあの光景だ。当時、中学を卒業した若者は金の卵と呼ばれ引く手あまただった。
惣領息子の多くはそのまま地元の農業高校などへ進んだ。彼らの主要な進路は役場、郵便局、消防署、農協といった地元の〝堅い職場〟だ。地方都市に近い場所では進出工場に職を得てサラリーマンになった跡取りも多い。先祖譲りの米作りや山仕事は父親が担い、息子は父親の引退まで給料取りに徹する。こうした家庭を兼業農家と呼ぶが、モータリゼーション社会になったこともあり、農村に住みながら農業をしない暮らしも可能になった。このような選択は人口移動研究の分野では在村離村と呼ばれている。ネガティブにも聞こえるが、過疎地域の未来を考えるときには案外ポジティブな可能性を持つ選択かもしれない。ちなみに大学へ進む学力があり、かつ経済力がある家の子は、学校側の勧めもあって長男でも都会へ送り出す流れになったが、多くの場合、彼らは故郷に帰ってこなかった。
いずれにせよ、都会がとびきり強い磁力を持つ場であることに変わりはない。集団就職の頃は、世帯主の出稼ぎも盛んに行われた。夫が外へ働きに行った家では、妻と年老いた両親が子どもたちと共に残された。かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃんの3人で田畑を守ったことから「三ちゃん農業」という言葉も生まれた。
そうこうするうち、農山村にも小さな縫製工場や電子部品工場が出来始める。いずれも下請けの小さな会社だ。安い賃金で雇うことができる地方女性の労働力を期待しての進出である。家を守りながら現金収入が得られる女性の内職やパート仕事は、ある時期までは農山村の過疎化を食い止める消波ブロックのような役割も果たしていたといってもよい。ところが、このような田舎の小工場は1980年代半ば以降次々に撤退する。きっかけは85年のプラザ合意である。急激な円高で国内での生産コストが上昇し、生産拠点を海外へ移す会社が相次いだ。
対策→振興→活性化→自立促進→持続発展
こうした過疎問題について、国は手をこまねいてきたわけではない=地域振興をめぐる主な動き参照。島根県匹見町長の大谷武嘉が国会で現状を訴えたことをきっかけにできた『過疎地域対策緊急措置法』以来、10年ごとに過疎関連の特別措置法が制定されている(時限立法)。ちなみに第2次は1980(昭和55)年の『過疎地域振興特別措置法』で「振興」を重点に据える。90(平成2)年の『過疎地域活性化特別措置法』(第3次過疎地特措法)では「地域活性化」という文言を使った。続く2000(平成12)年の第4次は『過疎地域自立促進特別措置法』で「自立促進」を、21(令和3)年の第5次は『過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法』で「持続的発展」という概念を掲げる(注12)。
(注12)『平成19年度版過疎対策の現況』総務省自治行政局過疎対策室2008
(敬称略)=後編につづく
記者・編集者
鹿熊 勤
Tsutomu Kakuma
記者・編集者
1960年生まれ、千葉県在住。フリーランスの記者。「BE-PAL」「サライ」といった雑誌に寄稿する傍ら、自然と共に暮らす人々の技術や環境問題を取材。2000年頃から地方で起きている変化を観察する。地方関連の著書に『移住で地方を元気にする IT社長が木の会社を作った理由』(小学館)など。