「実存」への目覚めと、もう一つの戦後
第1回 14歳の「虚無」と『地には平和を』
「復活の日」「果しなき流れの果に」「日本沈没」「虚無回廊」といった壮大な作品を遺した作家・小松左京(1931-2011)。思考の可能性を追究し続けた「SFの巨匠」の生き様や作品を読み解き、いつまでも色あせない小松文学の真髄に迫る。
教科書を黒く塗りつぶした日
1945(昭和20)年8月15日。当時、旧制中学2年生、わずか14歳だった小松左京(本名・小松実)は、「世界が反転する」という経験をした。
それまで「お国のために」を絶対の正義として教えられ、本土決戦に備えた軍事教練や工場動員に明け暮れていた少年の前に、突然「戦後」が現れたのである。
小松は後年の自伝で、戦争が終わったことを実感したのは、終戦から2日目に「ピカピカに輝くイワシを見たときだった」と記している。そして、再開された学校で待っていたのは、教科書の中の日本を礼賛する記述に墨を塗る作業だった(小松左京自伝第1部人生を語る 第2章焼け跡から始まった青春)。
昨日まで「正しい」と教えられていたものを、自分の手で黒く塗りつぶす。
断片的に届く戦争の惨禍に関する情報の中には、沖縄戦で同じ年頃の少年少女たちが悲惨な最期を遂げた事実があった。もし戦争があのまま続いていたら、自分も武器を取って戦場に倒れていたのではないか――。そう考えると、地面が崩れ落ちるような恐怖を感じたと、小松は振り返っている(同)。
昨日まで絶対だった価値が、敗戦によって一夜にして否定される。では、人間は何を根拠に、自分が生きる世界を信じればいいのか。
14歳の小松が直面したのは、戦争の恐怖だけではなく、自分が生きている世界の意味そのものが崩れるという、「実存」の問題だった。
後の小松左京が、国家や社会、地球や文明の未来をSFによってシミュレートしていくことを考えると、この少年時代の経験は重要である。
「もし、あのまま戦争が続いていたら」
この一つの「もしも」が、後の小松の思考を貫くことになる。

「高橋和巳」という存在
戦後、小松は旧制三高を経て、理系へ行けという父親に反発して、京都大学文学部へ進み、イタリア文学を専攻する。
京大時代、小松は友人によって印鑑を偽造され、自身のあずかり知らぬかたちで日本共産党に入党する。もともと反戦、反原爆の思いが強かった小松は、党の運動にも参加した。
その活動のなかで文学サークル「京大作家集団」に加わるよう指示され、そこで後に『悲の器』『邪宗門』などを著す高橋和巳と出会う。
二人は文学や思想について語り合い、終生の友となった。
興味深いエピソードがある。桑原武夫(仏文学者)の文学概論で、「文学は果たして人生に必要か」という課題が出された。小松が「人生と文学の間に緊密なる必要関係が成立するか」と懐疑的なことを考えたのに対し、高橋は「人生は文学にとって必要かを論じる」とした。小松はこれを見て「負けた」と思ったという(小松左京自伝第1部人生を語る 第3章空想と文学と恋)。
包含するものと包含されるもの。問いをそのまま受け取るのではなく、問いそのものを疑い、それを反転させる。
高橋との出会いは、戦争によって生じた小松の「世界への違和感」を、文学や思想という言葉に置き換えて考える契機になったのではないか。
戦争とは何だったのか。国家とは何か。文学で人間に何ができるのか。
14歳の少年が感じた「世界の反転」は、京都大学での文学と思想との格闘を通じて、より根源的な問いへと変わっていった。「もしも」が、後の小松の思考を貫くことになる。

「もう一つの1945年」
1960年、小松は早川書房の第1回SFコンテストに『地には平和を』を応募する。
ここで小松は、SFという形式を使って、14歳のときに抱いた「もしも」を現実の歴史にぶつけてみせた。
物語の舞台は、私たちが知る歴史とは異なる「もう一つの1945年」である。
現実の日本は8月15日に終戦を迎えた。しかし作品では、日本政府がポツダム宣言を黙殺し、秋になると連合国軍がコロネット作戦(注)による本土侵攻を開始する。
(注)第二次世界大戦末期に米軍が起案した日本本土への上陸計画「ダウンフォール作戦」の一つ。宮崎・鹿児島に侵攻するオリンピック作戦と、神奈川・千葉に侵攻するコロネット作戦で構成されたが、実行前に日本が無条件降伏した。
日本側は「一億総特攻」の思想のもと、少年や女性までもが動員され、凄惨な消耗戦へと突き進んでいく。
重要なのは、単に「もし日本が降伏しなかったら」という歴史改変ではない。
「別の1945年」を描くことで、私たちが現実だと思っている1945年そのものを問い直しているのである。
戦争が終わり、平和な戦後民主主義が始まった――私たちはそういう歴史を知っている。しかし、それは最初から決められていたものではない。ほんの少し条件が違えば、別の日本が存在していたかもしれない。
SFという「思考実験」は、その当たり前をいったん崩すことができる。
「与えられた戦後」は実存だったのか
『地には平和を』というタイトルは、新約聖書「ルカによる福音書」の一節に由来する。
小松が戦争の終結と平和を願っていたことは疑いない。しかし同時に、戦後日本が経験した価値観の急激な転換には、複雑な思いがあったのではないだろうか。
昨日まで「敵」と教えられていたアメリカが、やがて民主主義と豊かさの象徴となる。昨日まで絶対だった価値が否定され、新しい価値が当然のものとして受け入れられていく。
そこで浮かび上がるのが、「実存」という問題である。
戦前・戦中を生きた日本人にとって、戦後の日本社会は、本当に自分たちが選び取った「実存」だったのだろうか。
平和や民主主義は、敗戦という外的条件によって「与えられた」ものではなかったのか。
もちろん、これは戦後民主主義そのものを否定する問いではない。むしろ、平和とは何によって成立するのか、そして人間は与えられた価値の中で生きるだけでなく、自らの意思によってその価値を引き受けることができるのか、という問いである。
小松は『地には平和を』について、反戦小説を書きたかったが、戦争に行かなかった自分たちの世代には戦争を語る資格がない、という趣旨の発言をしている(小松左京自伝第2部自作を語る 第1章地には平和を)。
だからこそ彼は、戦争を直接体験した兵士の物語を書くのではなく、「もし終戦しなかったら」という世界を作った。
現実には存在しなかった歴史を描くことで、逆に、現実の歴史を生きる自分たちの存在を問い直す。
そこに、小松左京のSFの出発点の一つを見ることができる。

SFという「実存」のための装置
小松左京にとってSFは、現実から逃避するための空想ではなかった。
むしろ、現実を別の世界線に置き直すことで、「いま自分たちが現実だと思っているものは、本当に必然だったのか」と問い直すための装置だったのではないか。
14歳の少年は、昨日まで正しかったものが、一瞬にして崩れるのを見た。
その少年が、今度は自らの手で「もう一つの1945年」を作り出し、作家となった。
それは、歴史を改変する遊びではない。
「自分たちは、どのような歴史を生きているのか」
「その歴史を、自分自身の意思で引き受けることができるのか」
そうした実存への問いだった。
そして、その問いはやがて「歴史」という枠さえも超えていく。
人間は歴史に規定される存在なのか。もし歴史そのものを変えられるとしたら、人間の存在はどう変わるのか。
小松左京の「もしも」は、戦後日本という一つの時間から、やがて時間そのものへと向かっていく。
その思考が到達した一つの極点が、『果しなき流れの果に』である。
次回、時間という絶対的な存在に挑んだ小松左京のSF的想像力を追う。
(敬称略)
##後文
混沌として、先が見通しにくい時代。こんなときにこそ、非凡なビジョナリストだった小松左京の作品群に、私たちがたくましく生き抜くヒントがあるのではないか。そんな思いで本連載は企画されました。筆者は、元行政マンであるとともに文化の造詣も深く、小松作品の装画を手がけた希代のイラストレーター生賴範義(おうらい・のりよし)の作品管理団体の代表も務めています。(編集部)
一般社団法人宮崎オープンシティ推進協議会事務局長/公益社団法人生賴範義記念宮崎文化推進協会代表理事
井手 義哉
Yoshiya Ide
一般社団法人宮崎オープンシティ推進協議会事務局長/公益社団法人生賴範義記念宮崎文化推進協会代表理事
宮崎県商工観光労働部長、企業局長を歴任。串間市副市長として活動後、現職。行政経験を生かして、人口減少下でどうしたら地域社会を維持、活性化できるか、政治、行政、経済の分野について研究・実践している。