地方の歩みと大いなる可能性(後編)
人が減り、田畑は荒れ、野生動物との緊張が増すなど、地方の課題は多い。とはいえ、まだまだ豊かといえる自然環境が残り、人間力の塊のような古老もかろうじて生きている。過疎地域を〝衰退地域〟と断じていいのだろうか。長年、自然と共に暮らす人々に向き合ってきた著者が問う。
対策→振興→活性化→自立促進→持続的発展と、時代ごとに目標の主眼は変わっていくが、その政策(関連補助事業)が過疎地域に何をもたらしたのかを振り返ってみたい。ただし、これからの記述は個人的な見解も含まれていることをお許しいただきたい。
桃栗植えてハワイに行こう
『一村一品運動』が話題になったのは1979(昭和54)年である。大分県知事に就任したばかりの平松守彦が、県内市町村長との懇談を経て着想したという振興手法だ。大分県は、大相撲千秋楽後の表彰式の授与品としても知られる干しシイタケの産地。このような特産品を、各市町村が適地適作に磨きをかけ育て、全国、さらには世界に通用する第2、第3のブランドにしようという構想を、平松は副知事時代から温めていた。
首長懇談会では最初、道路が悪い、補助金が少ないなどの嘆き節ばかり聞かされたと平松は記述する。大分県は起伏の多い土地だが、全体的には穏やかな気候に恵まれている。そのせいか、ヨダキイ(めんどうくさがり)の気風が強かったという。豊後・豊前の時代は12もの小藩に分かれていたこともあり、足の引っ張り合いも多かった。そうした悪しき慣習を断ち切る意味も込め、平松が打ち出したのが一村一品運動だった(注13)。
(注13)『一村一品のすすめ』平松守彦(ぎょうせい)1982
一村一品運動のシンボルとして今も地域振興に関わる人たちの記憶に刻まれているのは、〈梅栗植えてハワイへ行こう〉というスローガンで一世を風靡した大山町(現日田市)である。傾斜地が多いため水は少なく、煙草、麦などの畑作物に依存してきた地域だ。いずれも重労働の割に収益に結び付きにくい品目である。大山町(村)では、国勢調査で過疎傾向が顕在化した1960年代にはすでに若者の流出問題が浮上していた。農家はいずれも零細で、暮らしは文化的とはいう言葉からほど遠い。未来を担う後継者を育てるには抜本的な改革が必要だと考えた当時の町長兼農協組合長の矢幡春美は、NPC運動を立ち上げた。
NPCとはニュー・プラム・アンド・チェスナッツである(新・梅栗計画といった意味)。梅や栗のような果樹は米麦よりも作業が楽で、〈桃栗三年〉の言葉のように苗を植えてからの収益化も早い。同時に矢幡は週休3日制農業論を唱え、労働効率の悪い米、畜産(牛)からの撤退を呼び掛けた。現実離れした考えであるうえに過激だったことから、頑迷な上の世代から猛反発を受けた。それでも持論を曲げない矢幡は三悪(米・牛・明治生まれ)追放もスローガンに掲げて叫んだという。

矢継ぎ早に行ったのが巡回映画館などの福利厚生、後継者を農業高校に進ませるための育英制度、先進地視察である。住民の意識を改革するために、矢幡は毎朝有線放送で思いを届け、夜は夜で集落を回り対話集会を開いた。意欲を高めるためにひねりだしたのが〈桃栗植えてハワイへ行こう〉という合言葉だった。ご想像のとおり、これはサントリーウイスキー『トリス』のCMコピーをもじったものである。これに対し〈頑張って おらも是非行く あのハワイ〉という返句が住民から寄せられるなど一体感も生まれた。
NPC運動はすべてうまくいったわけではないが、梅・栗にシフトした農家の所得は向上した。実際にハワイ旅行を果たした農家も多く、近所どうしの世間話のなかでダイヤモンドヘッドやワイキキビーチといったハワイの観光地の名がよく出るようになったという。若手後継者の中からは、果樹に偏った一本足打法はリスクが高いと考え、別な産業を模索する動きも出てきた。進んだ農業技術を学ぶためにイスラエルのキブツ(農業共同体)へも研修に赴いた。そうした研修者を中心に「世界を知ろう会」が結成され、新たな地域リーダーが育っていった。エノキタケの菌床栽培工場を立ち上げたり、都会の消費者のところまで出向いてニーズを汲み取ったりと、彼らは自ら考え自ら動いた。梅・栗、エノキタケといった1次産品をただ売るだけでなく、加工してより強固な地域ブランドにする1・5次産業化もスタートした(注14)。
(注14)『大山町細見:一村一品運動のモデルはいかにして形成されたか』足立文彦(金城学院大学論集)2015
平松は、この大山町の取り組みから一村一品運動を思いついたといってもいい。1・5次産業化は、90年代に村おこしの方程式として定着する「6次産業化」(1次産業×2次産業×3次産業)の出発点ともいえる(注15)。大山町の発想方法と、確立したノウハウは全国各地で参考にされた。とはいえ、表面を真似ただけの劣化コピーもあり、ブランドのレベルに達していない〝名ばかり名産品〟が広がったのも事実だ。そうした現実もありながら、一村一品的な考えはまもなく全国に増えていく農産物直売所の骨格的コンセプトになる。
(注15)6次産業は農業経済学者の今村奈良臣が1994年に提唱した。生産、加工、流通(販売)までを産地が一元化すれば、ブランド力と収益率を高めることができると指摘した
直売所の「カリスマかあさん」
採れたての野菜や手作りの総菜を、農家自身が販売する直売所が注目を集め始めたのは1980年代後半である。この種の販売所はそれまでもあった。道路に面した自分の土地に屋根付きの棚を設け、庭の片隅で育てた野菜や果物を並べる。人は常駐しておらず、買いたい人は自己申告で脇に置かれた料金箱にお金を投入する。無人市と呼ばれるが、性善説で運営されていることから良心市と称する地域もある。直売所の源流は、こうした個人や集落の小さな販売施設である。
農山村に暮らしているといっても、みんなが農産物を出荷しているわけではない。自分たちが食べ、余れば近所や親せきに配る。そんなレベルの耕作者は少なくなく、多くは高齢者と女性である。育てた野菜や果物はもっぱら自給と贈与を目的としたものだ。自分たちが食べるものなので見てくれは気にしない。したがって農薬も使わない。仮にこういった農産物を農協経済連のルートに乗せようと思っても、形や大きさが統一されていないため規格外になる。つまり値がつかない。
ここでいう直売所とは、系統出荷(市場出荷組織)からこぼれ落ちた、かつて〝三ちゃん農業〟と呼ばれたような女性や高齢者が集まり、共同で自分たちの生産物を売る施設である。安心安全で、袋には生産者の名前も入っている。ときには顔写真もある。作り手の顔が見えるとびきり新鮮な旬の野菜が、スーパー並みかそれよりも安い価格で購入できる。タイミングが合えば、納品に来た生産者から出品物の来歴や食べ方を世間話の感覚で聞くこともできる。こうした関係性が醸し出す温度感もあり、直売所はドライブの立ち寄りどころとして人気を博していく。国交省の道の駅制度では、ある時期から都市農村の交流促進が目的に謳われ、直売所のような空間が施設計画に組み込まれるようになった。
直売所の最大の成果は、農山村の女性や高齢者に誇りと自信をもたらしたことであろう。それまでの農村では世帯主が預金通帳を握っていた。直売所の初期には、売り上げ精算のため生まれてはじめて自分の口座を持った高齢女性も少なくなかった。入金はそれほど多いわけではないが、家族に気兼ねなくお金を使える。となれば、もっと残高を増やすにはどうすればいいかと考える。そこに楽しさがある。
閃いた仮説が当たるか外れるか。マーケティングといった言葉さえ知らなかった人たちの中から、類まれな商いのセンスを持つ人たちが見出されるケースが多いのも直売所効果である。私がかつて取材した愛知県のケースでは、米農家のおかあさんが押し寿司を作って売ってみたところ、瞬く間に人気を呼んで年間2千万円を売り上げるまでになった。しばらくは個人でやっていたが、周囲の後押しもあって有限会社化したという(注16)。
(注16)『葉っぱで2億円稼ぐおばあちゃんたち 田舎で生まれた「元気ビジネス」成功法則25』ビーパル地域活性化総合研究所編(小学館、2008年)

成功の背景にあるのは、皮肉なことだが地域文化の衰退だ。このあたりではかつて季節労働の節目ごとに押し寿司を作り食べる風習があった。過疎化や食の現代化でそれを作る習慣は減った。押しずしは地元の人たちの記憶から消える寸前だったが、直売所へ行けば買えると知って客が列をなしたのである。同様の例は漬け物などにもある。そうした女性たちは、いわば〝カリスマかあさん〟である。
ところで地方のスーパーマーケットと農産物直売所の違いはなにか。私自身は、並んでいる商品だけでなくコミュニケーションの場として機能しているかどうかで判断している。古来、交易の場は情報交換のコミュニティーでもあった。直売所のカリスマ母さんたちに共通するのは話し上手なことである。概して男性は女性よりもコミュ力が低い。今はさすがにそんなことはないが、90年代頃は、直売所の運営をお母さんたちにまかせ、自分たちは搬入が終わると店の隅で所在なげに煙草を吸っているおじさんたちをよく見たものである。そんな空気をがらりと変えたのがかあさんたちのコミュ力だ。
直売所の弱点
農産物直売所は今も農山村の希望の星だが、課題も見え始めて久しい。ひとつは競合だ。後発の直売所はおしなべて店舗が大きく駐車スペースも広い。問題は客の取り合いより出荷者の争奪だ。出荷者からすれば販路が増えることは喜ばしいが、客から見ると似たような品ぞろえの店が増ただけで、逆に魅力が薄れる。
そうした差別化を他の追随を許さないレベルで行なっているのが、たとえば長崎県雲仙市にある『オーガニック直売所タネト』だ。ここは東京から越してきた奥津爾(ちかし)・典子が立ち上げた個人直売所である。雲仙市には、伝統野菜の種を守りながら有機栽培を続ける岩崎政則というカリスマ農家がいる。岩崎に心酔する奥津夫妻は、東京時代から伝統作物を未来に伝える活動を続けてきた。岩崎はオーガニックに関心のある人たちの間では誰もが知る著名人だが、その岩崎の野菜を買える場所が地元にはなかった。雲仙周辺には、岩崎の薫陶を受け有機農業を始めた移住者も少なくないが、彼らの事情も同様である。そこで立ち上がったのが奥津だ。
所得水準の高い都会ならまだしも、雲仙のような地方で無農薬に特化した直売所など成立しないと見る人は多かった。しかもオープン間もなくコロナ禍に見舞われた。そんなタイミングの中でも奥津はタネトを軌道に乗せた。店内にはオーガニック料理のレストランを併設。また、古書やアウトレットの手作り陶器も扱うなど〈循環〉をコンセプトにした経営に徹している。こだわりの野菜を求めて、今では県内外のプロの料理人もよりよい食材を探すために足繁く通う(注17)。
(注17)『田舎賢人!』(小学館月刊「BE-PAL」2021年2月号)
農産物直売所で指摘されているもうひとつの問題は、スーパーマーケット化である。中堅直売所には年商1億円を超えるところも少なくないが、売り上げが順調に伸びるにつれ、達成目標も嵩増しされるのが常だ。数字に主眼が行くと真っ先に切り捨てられるのがお客さんとの雑談のような遊びの部分である。「搬入は開店前までに」といった規律がどんどん増えていく。「レジ打ちは専任のパートさんに」といったスーパー的なシステムも導入される。珍しい野菜を買ってみたが、レジの人に聞いても食べ方を知らないと言われることが今は普通になっている。運営者も出荷者も、設立時の理想を忘れたような直売所は他人事ながら心配になる。
そしてもうひとつの危機が高齢化だ。今まで自分で軽トラックを運転して野菜を搬入していた人たちが、運転免許を返上せざるを得ない段階になってきた。店側が集荷に出向くなどの対応もとられているが、ここへ来て表面化している問題が、客側の高齢化である。直売所に立ち寄ることは依然として外出時の楽しみだが、当初からの直売所ファンは老いた。大玉のハクサイやスイカのような重い商品は敬遠される。かつて飛ぶように売れた筍も、今は1本売りの人気がない。重さだけでなく、皮をむいて茹でること自体が厭われるようになっている。
私は長年にわたって全国の地方に足を運んできたが、地域に新しい風を呼び込むのは、「制度」(補助金)よりも「人」であるように思う。先の奥津夫妻に限らず、愛する地域を元気にしようと奮闘する人たちは少なくなかった。
たとえば、広島県庄原市で過疎を逆手に取ってやろうという「逆手塾」を主宰していた和田芳治さん(故人)。地方で心豊かに生きたいと考える仲間たちを集め、企画を連発。メディアに「雑草にのみ込まれゆく過疎地」と報じられると、すぐに『雑草を食べる会』を開く。高齢化率が高くなったといわれれば、老練な生活技術を活かした『名人市』を始める。笑顔をばねにしながら、最後までアイデアを繰り出して過疎を諦めない人生を送った(注18)。和田さんのユニークな地域活性論は、地方創生分野の大ベストセラーになった『里山資本主義』の中でも取り上げられている(注19)。
(注18)『ゲンキな田舎!』(小学館月刊「BE-PAL」2013年11月号)
(注19)『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』藻谷浩介・NHK広島取材班(KADOKAWA、2013)
鹿児島県鹿屋市柳谷町の町内会長だった豊重哲郎さんも印象深い。過疎の集落が抱えている課題を、同じく逆転の発想で解決してきた人だ。耕作放棄地が増えていると知るや、地区の高校生に声をかけてサツマイモを植えさせる。ただ芋を売るのではなく、焼酎に加工し付加価値を付け、その利益でプロ野球のイチローの試合を見に行こうとその気にさせたのだ。とはいえ、現代っ子はそれほど農作業の戦力にはならない。見かねた親や祖父母が、ひとり、ふたりと畑へ手伝いに来るようになった。こうした一体感の再生こそが、じつは豊重さんの狙いだった。
集落名からとった芋焼酎銘柄『やねだん』は、たちまち話題になり、人気商品に。売り上げは自治会の収入になる。会計が大幅黒字になったことで、高校生たちの福岡ドーム観戦が実現した。豊重さんは地区の高齢者に一律1万円のボーナスを出した。このことで柳谷はさらに話題となった。
人気漫画「釣りバカ日誌」作者のやまさき十三さん(宮崎県都城市出身)は、『あさひるばん』という映画のメガホンをとったことがある。舞台は宮崎で、登場するのは3人の元高校球児。中年になったが、人生の成功者とはいえない。その設定に込めた意図を、やまさきさんは私にこう説明してくれた。
「田舎の暑苦しいほどの人間関係にこそ幸福の本質があると思います。かつてのバブル期のように、多くの人が贅沢を味わえる時代はもう来ない。贅沢の定義そのものをとらえ直す必要がある時代に入りました」(注20)。
(注20)『ザ・ツリーハウス・ジャーナル』(小学館月刊「BE-PAL」2013年12月号)
これらの例が示しているのは、これからの地方は、いや、日本は、何を幸福の指標とすべきかという価値観の問い直しだろう。
ネイチャー・ポジティブ
人口減少は農山漁村だけではなく、地方都市とその郊外でも進行している。日本そのものが縮減時代に向かっていることが明らかになった今、私たちはどのようにものごとを考えればよいのか。先にも触れたように、2021(令和3)年に制定された第5次過疎地域特措法では「持続的発展」が掲げられている。発展を希求する文脈はそれまでの特措法でも振興、活性化といった言葉の中に見ることができるが、第4次の「自立促進」という言葉あたりから、国の過疎対策の方向が変わってきたように感じる。
70年代の過疎対策は主に不均衡を正す生活基盤の整備だった。その考えは20世紀が終わるまで続き、たとえば過疎地における公共事業(土木工事)は地域の雇用を確保する役割も果たしてきた。90年は地域の強みを伸ばすことに力が注がれた。2000年以降は自立が謳われ、エコツーリズム推進法(07年)、6次産業化推進法(10年)のような支援法も生まれた。とはいえ、国に出来ることには限界がある。公助は怠らないが、今までのように一律の補助を投じ続けることは無理なので、各地域が自助と共助と自分たちの才覚で対応していって欲しい、と言っているようにも読める。
同時に、自然が多く過密ストレスのない農山漁村を、新たな可能性が広がるフロンティアとして捉え直そうというメッセージも見える。観光や関係人口交流、移住、子育て、二地域居住、ICTのようなキーワードを過疎にかけ合わせれば、双発効果によるエネルギーが生まれるはずだという期待である。

過疎地域を今までのように〝衰退地域〟として扱うのではなく、国土の未来を支える〝重要地域〟として再定義する。その際に基本となるスタンスが持続可能性であるという論には斬新さを覚えるが、一方では難しさも感じる。
そもそも第5次過疎地域特措法が打ち出している持続的発展とはなにか。文脈はSDGs(持続可能な開発目標)と同じだろうと推測する。物質循環の法則と生物多様性を考慮し、差別や分断、争いを生む種を作らない。利潤をむさぼらず、真に賢明な消費選択をする。過疎地域の持続的発展とはこういう意味だろうが、今まで通りの価値観を尺度にしている限りは青臭い書生論になりかねない。
また、環境への影響をゼロに近づけるだけではもう間に合わないという結論から、「ネイチャー・ポジティブ」という考えも生まれた。企業や自治体には状況を回復させる義務があると定められたが、それは経済活動と必ずしも矛盾しない。そこにポジティブの意味がある。ここで思い出していただきたいのが、かつて日本の農山村で広く行われていた炭焼きだ。化石資源は埋蔵量に限界がある。採掘も自然破壊でしかない。しかし、コナラやクヌギのような広葉樹を伐採し窯で蒸し焼きにして作り出す木炭は、計画的に伐れば切り株から再び芽が出て大きくなり、15年から20年ごとに繰り返し利用することができる。木炭を燃やすときに出る二酸化炭素は、植物が空中から吸収して固定したものなので排出に関しては差し引きゼロとカウントされる。まさに持続可能な技術なのである。
資本主義は前進するたび新たな悩みを生んできた。きわめて危険なシステムであることに多くの人が気づいているはずだ。もはや資本主義を墜落させるわけにはいかないが、軟着陸をさせることはできるのではないかと、多くの経済学者や哲学者、社会学者、あるいは技術者らがその方法を模索している(注21)。東日本大震災の時は地方への移住者が増えた。原発が不安というだけでなく、未曽有の災害を機に都市空間の本質的な脆弱性に気づいた人たちも多かった。そして新型コロナウイルスによるパンデミックである。ICT技術の進歩もあって働き方に革命が起きた。必ずしも毎日の出勤を義務づけない働き方、つまり地方に暮らしながら都会と同等の仕事ができる業種が増えたのもコロナ禍がきっかけである。働き方改革の過程で、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも良好な状態を意味するウェルビーイングが重視されるようになり、移住、あるいは旅行以上移住未満の、ほどよく温もりのあるつながりを地方に求める人たちも増えた。発酵食や天然素材のものづくりなど、自然と調和したていねいな暮らしも、若い世代からかつてなく支持されているように感じる。
(注21)たとえば斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(2020)、ジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』(2023)、安宅和人の『「風の谷」という希望――残すに値する未来をつくる』(2025)など
人は減り田畑は荒れ、野生動物との緊張が増すといった課題はありつつも、まだまだ豊かといえる自然環境が残り、人間力の塊のような古老もかろうじて生きている。それが現代の田舎であるとすれば、土や緑に五感で触れる体験、交流を通じて知る古くて新しい価値観は、都会の人たちに得難い学びと安らぎをもたらすはずだ。周回遅れの地とみなされてきた田舎は、本質をとらえ直せば時代の先頭を行く未来の桃源郷ではないだろうか。
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記者・編集者
鹿熊 勤
Tsutomu Kakuma
記者・編集者
1960年生まれ、千葉県在住。フリーランスの記者。「BE-PAL」「サライ」といった雑誌に寄稿する傍ら、自然と共に暮らす人々の技術や環境問題を取材。2000年頃から地方で起きている変化を観察する。地方関連の著書に『移住で地方を元気にする IT社長が木の会社を作った理由』(小学館)など。